平将門 ( NHK その時歴史が動いた)
大手町1-1 の日本のビジネス街の中心にミステリースポットがある。
それは平将門の首塚。
政府庁舎建設や占領軍の駐車場造設のため首塚で工事を行おうとするとブルトーザーが横転したり不審死者が出たりしたため千年たった今でも恐れられている。
平安中期、貴族の横暴と圧制に苦しむ民衆を助けようと貴族社会打倒と東国独立政権をめざし立ち上がり新皇に即位した。恐れをなした朝廷に将門を呪い殺せと寺社に将門追討令を出さしめ、古代から中世の扉を開いたのが桓武天皇の末裔、下総国の豪族の平将門であった。
律令制国家からみると東国は文化の遅れた未開国で、国司は京から出ず、その土地出身の郡司などの下級官僚に任地の管理を任せていた。
当然なこととして国司以下の官僚の腐敗と私物化が横行していった。
丞平7年(937)富士山大爆発により凶作、飢饉であえいでいる民衆に国司らの不当な税の取立てや無理な労役を課すことで東国の民衆は貧困にあえぎ、逃亡者が続出した。班田制など律令法が緩和され原野開墾や逃亡農民の土地を得て大規模荘園が増えてくると一部豪農や国司・郡司が結託私利を蓄えていった。
国司・朝廷の支配からの自立をはかるために土地を捨てた人々が将門のもとへ集まり始めた。
将門は武力での蜂起ばかりでなく、原野の開墾、砂鉄からの鉄の農具製作のため製鉄炉と工房の増設で効率向上により収穫量の向上を指導した。鉄の増産で農具や武器の改善がみられ、武器たとえば刀の戦闘法に変化が現れた。直刀は突くのに適しているが、10世紀になると刀身が反っている刀が主流になってくる。これは馬上から敵を切るのに適している。
また軍馬の生産などで軍事力も強化された。
天慶(てんぎょう)2年(939)夏。将門に転機が訪れた。
常陸国の豪族の藤原玄明(はるあき)が国司の納税を拒否、穀物倉を襲い人々に穀物を分け与えたという事件が起きた。玄明は将門のもとへ逃げ込み、将門は玄明を向かえ入れた。国司は玄明の引渡しを要求したが拒否。天慶2年11月21日1000名の兵で挙兵、常陸に向け進軍。国司3000の軍を将門の騎馬軍団がうちやぶる。圧倒的勝利で国司を捕らえ”国印”と”倉の鍵”を奪った。
これは朝廷から常陸国を奪い取ったことにほかならない。
勝利後将門の蜂起について”将門記”にこう書かれている。
今すぐ東国諸国の国印と倉の鍵をすべて奪い国司を都に追い返そう。
そして東国を我らの手で治め民を味方につけるのだ。
常陸をおとした後破竹の勢いで下総、常陸、下野、上野へと進軍する将門が事実上東国の支配者になる。
さらに”将門記”は、
それぞれ竜のような駿馬にまたがり雲霞のごときおびただしい兵を従え、万里の山をも超え10万の軍にも打ち勝とうという勢いであった。国を支配できるのは神からそれを託された天皇のみ、一介の豪族の将門が取って代わろうとしている。
将門反乱という古代以来の支配体制をゆるがす大事件に朱雀天皇は神に祈りをささげた。
今、平将門なるものが兵を挙げ悪行をほしいままにし国主の位を奪おうとたくらんでいます。どうかこの難儀をおはらいください。
”将門記”によると。
上野国を占拠した将門の陣営に八幡大菩薩(天皇の祖先といわれる高祖神の一つで民衆の絶大な信仰を集める神)の使いと称する巫女が現れた。
慶長2年(939)12月19日、八幡大菩薩は平将門に天皇の位を授け奉るとおつげがあった。
明治40年発行の『平将門故蹟考』(碑文協會)に次のような記述がある。「菅原道真は延喜三年死す、将門此の歳に生る故に菅公の再生という評あり」。すなわち、菅原道真が延喜3年(903年)に太宰府で没したその年に将門が生まれていることから、将門は道真の生まれ変わりと評されていたというのである。道真は朝廷によって都から追放され、無念の死を遂げた役人で死後天変地異が起きた。御所に落ちた雷で醍醐天皇が崩御されたり、左大臣はじめ朝廷関係者の変死が相次いだ。すべてが道真の祟りといわれ恐れられた。将門死後間もない頃に書かれたとされる『将門記』などにも、道真の霊験により将門に「親皇」の位記(いき:位を授けるための文書)を伝える場面が記されている。
将門が新たな国家を東国に樹立するために天皇に対抗する権威づけが必要だった。
八幡大菩薩と菅原道真の霊魂により将門は新皇の位につく。
東国は独立国となった。
朝廷は将門の調伏の祈祷を全国の諸神社の神官たちに命じた。
”将門記”には東国の独立について下記の様に書かれている。(将門の戦死2ヶ月前)
昔から武芸に優れたものが天下を征する例は多く、歴史書に見られるところであります。この将門に日本の半分を領有する天運がないとは言えますまい。
天慶2年(939)12月末、瀬戸内での藤原純友の乱勃発、国司が殺害された。
祈祷調伏の効き目があらわせないと、朝廷は都を警護する程度の軍事力では将門反乱に巻き返しを図れないと市井の武士を味方につけようと天慶3年(940)将門追討令の太政官符発布。
破格の褒美として。
魁師(将門)を殺さば募子に朱紫(貴族の衣の色)の品を与える。
すなわち将門を殺せば貴族にする。本来、貴族は代々世襲であったが国司・郡司に出す官符を一般国民に向け打ち出し手柄があれば破格の褒美として武士・農民も貴族にするということは貴族支配をゆるがす決断だった。
その官符をうけ、常陸国の豪族 平貞盛と下野国の豪族 藤原秀郷らが応じた。
将門記には、群集を甘言をもって誘い、その配下の兵は倍になった。とある。
将門は東国各地に国司をおき天慶3年(940)1月下旬に、農作業に従事させるため配下の兵を故郷に帰した。2月14日 兵をといた将門の本拠地下総岩井に2900の平貞盛・藤原秀郷連合軍が進軍、将門軍400と対峙した。
将門記には。
東国は都の貴族支配に対し立ち上がったのである。都の貴族の甘言にのって東国の地を貴族に売り渡そうとしているものがいる。民をかつての苦しみにおとしめてはならない。たとえ軍勢に劣るといえども決して裏切りものどもに屈してはならない。
午後3時 将門軍は7倍の敵に挑みかかる。
将門記によると。
馬が風の様に飛ぶ歩みを忘れた時
新皇に神の射放った鏑矢が突き刺さった。
この時新皇は一人惨めに滅び去ったのである。
天慶3年2月14日 夕刻。 将門死す。
首は京の都・平安京まで送られ東の市・都大路でさらされたが、3日目に夜空に舞い上がり将門の首はカラカラと笑った後、3日目に夜空に舞い上がり東の故郷に向かって飛んでゆき、数カ所に落ちたとされる。伝承地は数ヶ所あり、いずれも平将門の首塚とされている。
武家政権発生の起爆剤となった将門。
将門の霊をつなぎとめるという意味をこめて つなぎ馬の紋 を将門のシンボルとしている。
将門記がいう。
その悲しみは、開かんとする花がその直前に萎るがごとく
今にも光り輝かんとする月が思いがけず雲間に隠れるが如し。
もとへ